2014年07月11日

種まく人(種をまく人)

1850年、フランスのサロンに出品されたミレーの作品は、『種まく人』という異色の内容であった。

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種まきは、すぐに利益の得られる生業ではない。
一年生作物であれば数ヶ月先に利益が得られるが、果樹や建築材であれば10年以上後になってようやく利益が得られる場合もある。
したがって、それは「未来を肯定する」という精神的行為をともなってはじめて成立することになる。

未来とは、収穫物の未来であり、また自分や家族たちの未来であり、村の仲間たちの未来であり、環境の未来でもある。
もしこれらの未来を否定するならば、種まきは生業としての価値を持たない。
だが、希望が込められた種がそれらの未来を肯定してくれる。

そうした生業の中で倫理的な気づきが生まれる場合もあるのだろう。
農業を営む人の中には独自の倫理観を持つ人が多いように私は感じる。

種まきとは、そうした精神性を内包する行為なのだ。
だからミレーの絵には魅力があるのだと思う。
その精神性は、言葉ではなく行為によって論理的な筋が通されていく。

アメリカ由来の環境倫理学では世代間倫理、地球全体主義、自然の生存権などが主張されるが、世代間倫理の考え方は未来を肯定するという点で種まきの精神性に似ている。
ただ違っているのは、世代間倫理が社会契約や平等を根本的理由として掲げながら、間接的に未来を肯定する方向性を示すのに対し、種まきの精神性は経験がそのままダイレクトに未来を肯定する方向性を示す点だろう。

世代間倫理は資源の枯渇や環境破壊の深刻さを直視する中で生み出された考えであり、論理的で現代的だ。一方、種まきの精神性は論理的ではないが、無意識に強く訴えかけるものがある。

日本にはまだ多くの人が納得できる環境倫理は存在しない。
アメリカ由来の環境倫理は、自然環境の大きく異なる日本ではそのままでは通用しない。
だとしたら、農業を営む人たちの精神性の中にあたらな環境倫理のヒントが隠されているのかもしれない。

農業を営む人たちは、身の回りの自然と深くかかわりあいながら生活し、多くの経験と知識、知恵を蓄えている。
今でも日本の伝統的な農村を訪ねれば、都会に住む大卒の「知識人」たちよりも、自然に関する多くの経験的知識を持つ人たちに出会う。彼らの身の回りの環境をつぶさに観察すれば、道路わきの空き地や畑の畔道などを含めてあらゆる場所が無駄なく管理されていることに気づく。彼らは環境を直視し、環境を持続的に維持することによって生き残ってきたのだ。

だから、私を含め民族学や民族植物学を研究する者たちは、農業を営む人たちに多大な敬意を払う。
とはいえ、彼らの倫理観は現代的ではなく、時代遅れの可能性もあるだろう。
それでも、「種まく人」との対話の中で新たな環境倫理のヒントが生まれる可能性もある。
その可能性を大切にしたい。


【追記】 2014年7月15日
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このマークは岩波書店の登録商標であり、創業者の岩波茂雄氏が『種まく人』から影響を受けたことに由来する。岩波書店は、古今東西の古典的名著を文庫という形式で安価で供給し続け、知識という種を社会に広くまいた。
種まきの精神性は、農業以外の場面へも波及していく。


【謝辞】
GATAG|フリー絵画・版画素材集(http://free-artworks.gatag.net/
岩波書店 岩波の志(http://www.iwanami.co.jp/company/
以上のページより画像をお借りしました。感謝申し上げます。
タグ:ミレー
posted by 道下雄大 at 23:43| Comment(0) | 絵画
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