2014年07月08日

落穂拾い

ジャン・フランソワ・ミレーの絵画は、土地と人とのつながりを感じさせる。
『落穂拾い』は1857年に発表され、フランスの農村を描いたものだが、そこには土地から落穂を集める人たちが描かれている。

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落穂拾いとは、麦畑での収穫後に、収穫されずに地に落ちた穂を集める行為を指す。ただし落穂を集めるのは畑の所有者ではなく、外からやってきた貧民たちである。
これはいわば貧民救済策なので、心ある畑の所有者たちは収穫時に多くの穂を地に落とし、そのまま放置する。『旧約聖書』の「レビ記」や「申命記」でその風習が推奨されており、キリスト教圏の農村ではかつて広くみられた。韓国の農村では今でもその風習が残っているときく。

「申命記」第24章にはこう記述されている。
「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。 (中略) あなたがオリーブの実をうち落とすときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび探してはならない。 (中略) あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。」

モッタイナイの心を大切にする日本では、ふつう農作物は無駄なく収穫され、余った農作物は親族や村の仲間たちに分け与えられる。赤の他人や動物が勝手に農作物を持ち出すことはふつう許されない。
これを当たり前と考えていた私にとって、落穂拾いという風習はきわめて衝撃的だった。

彼らにとって土地とはいったい何なのだろう。

もし動物行動学的な「なわばり」として土地を意識するならば、「なわばり」に侵入する赤の他人たちは排除される。それをあえてしないのなら、その土地は「なわばり」ではない。かといって共有地や公有地でもない。落穂拾いがなされる土地は、私有地と共有地の中間的な意味を持っているのだ。

そこで人々は、土地から得られる収穫物を見知らぬ他者と共有し、時には動物たちと共有することになるだろう。
やがて、人は「なわばり」の呪縛から部分的に解き放たれ、人としての新たな倫理を手に入れる。

落穂拾いは、寄付行為の一種とみなせるが、キリスト教圏の人たちは二千年以上もの間、生活と密接に結びつく形でこうした寄付行為を行ってきたのだ。慈善団体や自然保護団体への寄付額が日本とキリスト教圏では比べ物にならないほど違っているが、この文化的な歴史性を考えれば当然ともいえる。

今回取り上げたのは、キリスト教圏の風習だが、周知のように日本にもすばらしい風習があり、その他の国々にももちろんすばらしい風習がある。
一方で良くない風習も世界各国にある。
各国がお互いのすばらしさを理解しあうため、私たちは文化や風習に関する理解をさらに深める必要があるのだろう(そのためには私の専門である民族植物学をもっと発展させねばならないが・・・)。

なお、ミレー(Millet)という人物名は雑穀(millet:ヒエ、アワ、キビなど)に由来しており、日本語的には稗田さんという感じだと思う。名に恥じぬ活躍をされたミレーさんに敬意を表したい。


【謝辞】 韓国の落穂拾いに関する情報は現地を知るK氏から教えていただいた。『落穂拾い』の画像は「GATAG|フリー絵画・版画素材集」(http://free-artworks.gatag.net/)のものを使用させていただいた。感謝申し上げます。
タグ:ミレー
posted by 道下雄大 at 09:39| Comment(0) | 絵画
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