2014年07月16日

伊藤若冲の作品群

生物の好きな人であれば、伊藤若冲(1716〜1800)の作品のすばらしさは説明するまでもないだろう。花鳥画の伝統を受け継ぎながらも、細部の正確さを追求したその筆遣いには、江戸時代に発展した本草学(博物学)の影響がみられる。代表作は『動植綵絵』など。

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(プライス・コレクションの『紫陽花双鶏図』。これ以外にも「伊藤若冲」や「動植綵絵」でネット検索すれば多くの作品群を見ることができる。)

人は日常生活を送る中で、身の回りのさまざまな生物や存在、風景などを見て、それらを心で感じる。
しかし、身の回りに存在するにもかかわらず、あまり意識していない存在や風景も多い。

例えば、身近な植物の花のつき方、おしべの数、枝の分かれ方、葉脈の模様、葉の裏の色、
これらを真摯に見つめるならば、人は今まで気づかなかった非日常の世界が広がっていることに気づく。
そこに広がる世界は、幾何学的なデザインだったり、不思議な一体感を見せる曲線模様だったり、生物が生き残るために獲得した機能美だったり、多種多様な姿で彩られている。
これらはいわば小宇宙(ミクロコスモス)であり、私自身の日常と常につながっているにもかかわらず、隠れていた非日常ともいえる。

小宇宙といえば、ルーペや顕微鏡でのぞいた世界をイメージする人がいるかもしれないが、見つめる心さえあれば、肉眼でも十分に観察可能である。生物学の基礎となった本草学は肉眼を通して世界を見つめたのであり、伊藤若冲も同様であった。

それは見つめなければ、一生気づくこともなかったであろう世界。
画家はそれらの世界を絵で表現し、学者は文字でそれらを表現する。

このように人は、見つめることによって、新たな世界との「つながり」を増やしていく。

この「つながり」が人にとってどのような意味を持つのか、科学的にはまだ明らかにされていない。
けれども、この「つながり」は人にとっての生きる糧の一つであるように私には思える。
ときには「つながり」が環境を愛する心を育み、環境とつながって生きることを可能にする場合もあるだろう。

もし生物学的な視点だけで見るなら、ベルギーの画家ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテ(1759〜1840)やシーボルトの絵師をつとめた川原慶賀(1786〜1860)の方が作品の構図により現実味や客観性があり、よりすぐれた画家だと私は考える。

それでも、生物学的な価値を保持しながらも、同時に生物の躍動感をもみごとに表現した伊藤若冲は、稀有な存在だ。
その作品の躍動感は、日頃生物に興味のない人をも引き寄せる力があり、穏やかながらも現代社会に影響を与え続けているのだろう。

(文責:道下雄大)


【謝辞】
GATAG|フリー絵画・版画素材集(http://free-artworks.gatag.net/
より画像をお借りしました。感謝申し上げます。
タグ:伊藤若冲
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このブログについて(改定)

このブログは、環境倫理の視点からさまざまな芸術作品を見つめると、どのような気づきがあるのかをエッセイ風に記したものです。

環境倫理とは、『環境倫理学』(鬼頭秀一・福永真弓 2009)によれば、「『環境』に対する人間のあり方に対する規範」とされ、ふつうはこの意味で使用されます。

ただし、環境倫理はそれ自体に多様な視点を含んでいるので、結果として著者の個人的な視点が多く反映されていることはご了承ください。私の専門は民族植物学であり、環境倫理学はアマチュア的に研究してきたにすぎませんが、環境倫理シンポジウムを主催するなど市民運動で学んだ経験や民族植物学のフィールドワークの中で得た経験などを反映させて記しています。

芸術作品を異なる視点で見つめれば、異なる気づきがあり、異なる考察が生まれます。
このブログを読まれた方は、自己とは異なる視点に触れ合うことになりますが、
異なる視点と触れ合うことを心地よいと感じるか、不愉快と感じるかは人それぞれです。

異なる視点と触れ合うことを心地よいと感じる人たちのために、このブログを捧げます。

ブログ管理者
道下雄大

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2014年07月11日

種まく人(種をまく人)

1850年、フランスのサロンに出品されたミレーの作品は、『種まく人』という異色の内容であった。

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種まきは、すぐに利益の得られる生業ではない。
一年生作物であれば数ヶ月先に利益が得られるが、果樹や建築材であれば10年以上後になってようやく利益が得られる場合もある。
したがって、それは「未来を肯定する」という精神的行為をともなってはじめて成立することになる。

未来とは、収穫物の未来であり、また自分や家族たちの未来であり、村の仲間たちの未来であり、環境の未来でもある。
もしこれらの未来を否定するならば、種まきは生業としての価値を持たない。
だが、希望が込められた種がそれらの未来を肯定してくれる。

そうした生業の中で倫理的な気づきが生まれる場合もあるのだろう。
農業を営む人の中には独自の倫理観を持つ人が多いように私は感じる。

種まきとは、そうした精神性を内包する行為なのだ。
だからミレーの絵には魅力があるのだと思う。
その精神性は、言葉ではなく行為によって論理的な筋が通されていく。

アメリカ由来の環境倫理学では世代間倫理、地球全体主義、自然の生存権などが主張されるが、世代間倫理の考え方は未来を肯定するという点で種まきの精神性に似ている。
ただ違っているのは、世代間倫理が社会契約や平等を根本的理由として掲げながら、間接的に未来を肯定する方向性を示すのに対し、種まきの精神性は経験がそのままダイレクトに未来を肯定する方向性を示す点だろう。

世代間倫理は資源の枯渇や環境破壊の深刻さを直視する中で生み出された考えであり、論理的で現代的だ。一方、種まきの精神性は論理的ではないが、無意識に強く訴えかけるものがある。

日本にはまだ多くの人が納得できる環境倫理は存在しない。
アメリカ由来の環境倫理は、自然環境の大きく異なる日本ではそのままでは通用しない。
だとしたら、農業を営む人たちの精神性の中にあたらな環境倫理のヒントが隠されているのかもしれない。

農業を営む人たちは、身の回りの自然と深くかかわりあいながら生活し、多くの経験と知識、知恵を蓄えている。
今でも日本の伝統的な農村を訪ねれば、都会に住む大卒の「知識人」たちよりも、自然に関する多くの経験的知識を持つ人たちに出会う。彼らの身の回りの環境をつぶさに観察すれば、道路わきの空き地や畑の畔道などを含めてあらゆる場所が無駄なく管理されていることに気づく。彼らは環境を直視し、環境を持続的に維持することによって生き残ってきたのだ。

だから、私を含め民族学や民族植物学を研究する者たちは、農業を営む人たちに多大な敬意を払う。
とはいえ、彼らの倫理観は現代的ではなく、時代遅れの可能性もあるだろう。
それでも、「種まく人」との対話の中で新たな環境倫理のヒントが生まれる可能性もある。
その可能性を大切にしたい。


【追記】 2014年7月15日
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このマークは岩波書店の登録商標であり、創業者の岩波茂雄氏が『種まく人』から影響を受けたことに由来する。岩波書店は、古今東西の古典的名著を文庫という形式で安価で供給し続け、知識という種を社会に広くまいた。
種まきの精神性は、農業以外の場面へも波及していく。


【謝辞】
GATAG|フリー絵画・版画素材集(http://free-artworks.gatag.net/
岩波書店 岩波の志(http://www.iwanami.co.jp/company/
以上のページより画像をお借りしました。感謝申し上げます。
タグ:ミレー
posted by 道下雄大 at 23:43| Comment(0) | 絵画

2014年07月08日

落穂拾い

ジャン・フランソワ・ミレーの絵画は、土地と人とのつながりを感じさせる。
『落穂拾い』は1857年に発表され、フランスの農村を描いたものだが、そこには土地から落穂を集める人たちが描かれている。

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落穂拾いとは、麦畑での収穫後に、収穫されずに地に落ちた穂を集める行為を指す。ただし落穂を集めるのは畑の所有者ではなく、外からやってきた貧民たちである。
これはいわば貧民救済策なので、心ある畑の所有者たちは収穫時に多くの穂を地に落とし、そのまま放置する。『旧約聖書』の「レビ記」や「申命記」でその風習が推奨されており、キリスト教圏の農村ではかつて広くみられた。韓国の農村では今でもその風習が残っているときく。

「申命記」第24章にはこう記述されている。
「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。 (中略) あなたがオリーブの実をうち落とすときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび探してはならない。 (中略) あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。」

モッタイナイの心を大切にする日本では、ふつう農作物は無駄なく収穫され、余った農作物は親族や村の仲間たちに分け与えられる。赤の他人や動物が勝手に農作物を持ち出すことはふつう許されない。
これを当たり前と考えていた私にとって、落穂拾いという風習はきわめて衝撃的だった。

彼らにとって土地とはいったい何なのだろう。

もし動物行動学的な「なわばり」として土地を意識するならば、「なわばり」に侵入する赤の他人たちは排除される。それをあえてしないのなら、その土地は「なわばり」ではない。かといって共有地や公有地でもない。落穂拾いがなされる土地は、私有地と共有地の中間的な意味を持っているのだ。

そこで人々は、土地から得られる収穫物を見知らぬ他者と共有し、時には動物たちと共有することになるだろう。
やがて、人は「なわばり」の呪縛から部分的に解き放たれ、人としての新たな倫理を手に入れる。

落穂拾いは、寄付行為の一種とみなせるが、キリスト教圏の人たちは二千年以上もの間、生活と密接に結びつく形でこうした寄付行為を行ってきたのだ。慈善団体や自然保護団体への寄付額が日本とキリスト教圏では比べ物にならないほど違っているが、この文化的な歴史性を考えれば当然ともいえる。

今回取り上げたのは、キリスト教圏の風習だが、周知のように日本にもすばらしい風習があり、その他の国々にももちろんすばらしい風習がある。
一方で良くない風習も世界各国にある。
各国がお互いのすばらしさを理解しあうため、私たちは文化や風習に関する理解をさらに深める必要があるのだろう(そのためには私の専門である民族植物学をもっと発展させねばならないが・・・)。

なお、ミレー(Millet)という人物名は雑穀(millet:ヒエ、アワ、キビなど)に由来しており、日本語的には稗田さんという感じだと思う。名に恥じぬ活躍をされたミレーさんに敬意を表したい。


【謝辞】 韓国の落穂拾いに関する情報は現地を知るK氏から教えていただいた。『落穂拾い』の画像は「GATAG|フリー絵画・版画素材集」(http://free-artworks.gatag.net/)のものを使用させていただいた。感謝申し上げます。
タグ:ミレー
posted by 道下雄大 at 09:39| Comment(0) | 絵画

2014年07月03日

鋼の錬金術師

『鋼の錬金術師』は、荒川弘による漫画作品。『月刊少年ガンガン』にて、2001年8月号から2010年7月号まで連載された。2003年と2009年の2度、異なる形式でアニメ化されている。

この作品の舞台は近代ヨーロッパ風の架空世界だが、登場する「錬金術」はヨーロッパで研究された本物の錬金術と異なり、いわゆる魔法のような技術である。ただし等価交換という制約下でのみ可能となるため、無から物質やエネルギーを生み出したり、飛行や瞬間移動をしたりするようなことはできない。
この等価交換という制約により、本作品は精神的な意味でオリジナリティの高い作品となっており、他のファンタジー作品とは大きく一線を画している。

2003年に制作されたアニメ版の『鋼の錬金術師』では、毎回オープニング曲に先立って次の説明がなされるが、これは『鋼の錬金術師』をみごとに要約している。

「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。
 何かを得るためには、それと同等の代価が必要になる。
 それが、錬金術における等価交換の原則だ。
 その頃僕らは、それが世界の真実だと信じていた・・・」

物語の冒頭で主人公の少年は「錬金術」における禁忌を犯し、その代償として右手と左足、弟の体を失う。
彼は罪人であることを自覚しながら、失ったものをとり戻すための長い旅に出る。そして、多くの仲間たちと敵たちに出会う。


環境倫理的な視点で見るなら、
等価交換は平等という概念に似ている。
それは現代哲学で語られる平等とは意味がややずれるが、私たちが素朴な意味で使用する平等は等価交換とほぼ同義だと思う。

例えば、何の犠牲もなく自由に望むものが得られる人がいたり、特別な理由もなく商品に代価を支払わない人がいたとしたら、社会における平等性は低下する。人種差別や男女差別は、平等だけではなく等価交換をも破壊する。

また、血のにじむような努力をした人が何かに成功するとき、多くの人はその事実を心地よく感じる。努力をしない人が何かに成功した時、多くの人は釈然としない不平等さを感じる。

人から助けられた時、自然の恵みを受けた時、人は何らかの形でそのお返しをしたい衝動に駆られるが、これも等価交換や平等の現れであろう。

でも、等価交換や平等は世界の真実だろうか?

確かに、この物語で指摘されるように、化学の質量保存の法則は等価交換の様相を示す。
一方、生物の世界では、優秀な遺伝子を持つものたちが、そうではないものたちよりも、より多くの食料を得て、より多くの子孫を残す。
それが生物学の指し示す厳然たる事実。

人の世界では、動物よりも努力がより大きな意味を持つけれども、優秀な遺伝子を持つものが生存により有利であるのは同じだ。

したがって、等価交換や平等が世界の「事実」とは言い難い。

それでも、等価交換や平等が私たちの心に大きな影響を与え続けているのだとしたら、それは「事実」を越えたところにある大切な心の「願い」なのだろう。

そうした心の「願い」は「事実」よりも美しい、
私にはそう感じられた。


【関連ページ】
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(赤い服を着た人物が主人公のエドワード・エルリック。4巻右の黒服の人物たちが敵のホムンクルスであり、暴食、嫉妬、色欲などと7つの大罪(カトリックの教えの一つ)に由来する名前を持つ。暴食、嫉妬、色欲もまた精神的な意味では厳然たる「事実」である。)

   
タグ:荒川弘
posted by 道下雄大 at 13:24| Comment(0) | 漫画