2014年01月20日

ソラノカナタ

『ソラノカナタ』はちめいどの楽曲であり、蔭山武史が作詞し中越雄大が作曲した。
ちめいどは中越雄介、雄大の兄弟2名によるアコースティックユニットであり、生きることの素晴らしさ、生命の大切さなどを味わい深く歌うことで知られる。ちめいどの楽曲はふつう雄介氏または雄大氏が作詞するが、この作品では筋ジストロフィーという重度の難病にある蔭山武史氏が特別に作詞している。

私はとあるきっかけで蔭山武史氏と親交を得て、彼の自宅を2度訪ねたが、常に人工呼吸器を身につけなければならない彼の生活の大変さは私の想像を絶していた。障害者や医療の問題に興味のある人は、彼の自伝『難病飛行―頭は正常、体は異常。』をぜひ読むべきだろう。

私は気になっていた。

彼のように自然と触れ合う機会が少なく、また壮絶な人生を歩む人物は、人生をどのように認識し、身の回りの環境に対してどのような想いを抱いているのだろうかと。

私はそのような人物と対話するのが好きだ。
でも残念ながら彼は口で対話することができない。
メールやFacebookでなら対話できるが、文章で哲学的な質問をすれば変な誤解を与えるかもしれない。自分の体調が悪かったこともあり、彼から遠ざかっていた。

でも、彼の想いの断片はこの作品の中にちりばめられていた。

『ソラノカナタ』では、青空というキャンパスに決してあきらめることのできない彼の夢が描かれる。その夢を支えるのは、かつて彼と死別した愛する仲間たちであり、現在集まりつつある多くの友人たちのようだ。

この曲の精神性で注目すべきは、環境に対するイメージが心境によって変化するさまを描いている点だろう。

ちめいどは「街の騒音さえも心地よく思えるよ」と歌うが、ひょっとしたらこのような感覚は誰にでも経験があるのかもしれない。

身の回りの環境に対するイメージや想いは人それぞれに異なっているが、同一人物でも心境によってさまざまに変化する。

そして、その心境による変化の程度は個人差が大きい。

私の場合では、それまで当たり前のように存在していた木々や草花が突然全く異なる存在として自分に迫ってくるのを感じた経験がある。それらの存在が私を圧倒し、何かが心の底に響いた。この経験は結果として私に民族植物学への道を歩ませる。

私の敬愛する森岡正博氏は、便器やコップ、歯ブラシなど様々な事物に対してこうした感覚を持ったことを『無痛文明論』第7章で吐露しながら、これに対して興味深い哲学的考察を行っている。

このような心境を人は気づき、さとりなどと呼ぶが、いずれにしてもかけがえのない大切な経験だ。
その瞬間、自己と環境の両者が精神的・哲学的な意味で変化し、響きあい、音色を奏でていく。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
ちめいど・オフィシャルブログ
http://ameblo.jp/bchimeido/

蔭山武史(特定非営利活動法人もみの木)ブログ
http://ameblo.jp/kage35/

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蔭山武史『難病飛行―頭は正常、体は異常。』




posted by 道下雄大 at 22:02| Comment(1) | 音楽

2014年01月18日

魔法少女まどか☆マギカ

『魔法少女まどか☆マギカ』はシャフト制作、新房昭之監督、虚淵玄脚本によるアニメ。2011年1月から4月まで放送された。全12話。
魔法少女といえば楽しい子供向けの物語をイメージしがちだが、これは大人向けのシリアスかつ哲学的な美術作品というべきだろう。

作画は戦闘シーンとそれ以外のシーンで異なっており、戦闘シーンでは劇団イヌカレーのイラストによる不思議な抽象芸術空間が表現され、それ以外のシーンではアール・ヌーヴォーを彷彿とさせる自由曲線が巧みに描きこまれている。どちらのシーンでも非日常的な印象が強く、しばしば自我が薄れゆくような陶酔感を生み出す。

一方、この作品は「願い」をテーマとした深い精神性も描いており、非日常性の中に精神的リアリティが立ち現れる。

登場人物たちは、一つだけ願いをかなえてもらう代償として魔法少女になる契約を結ぶ。
その願いは、たとえ宇宙の法則を捻じ曲げるようなものであっても問題なく、契約時に瞬時に実現する。

人は誰でも多くの願いを持っている。

それゆえに人はさまざまな努力を重ねてゆくが、その努力が実を結ぶこともあれば、実を結ばないこともある。

でも、もし一つだけ願いを瞬時にかなえてもらえるとしたら、あなたは何を願うのだろうか?

その願いをかなえてもらったとして、あなたは本当に幸せになるのだろうか?

物語の登場人物たちは、こうした問いかけに心を悩ませ、それぞれが一つの決断を下していく。

個人的には物語の流れがやや強引で現実味に欠ける点が残念だが、高い芸術性と精神性が同居したこのアニメはまれな良作品だと思う。

ところで、
「願い」は現在の環境倫理学ではほとんど考慮されていないが、それは環境倫理との関連が薄いからでは決してない。

例えば、自然のあるべき姿は人により異なり、それらの違いにより「自然に人手を加えるべきかどうか」など思想的な対立が世界各地で生じている。これはつまり「自然がこうあって欲しいという願い」が人それぞれに異なることを意味する。

では、自然に対してどのようにあって欲しいと、私は願うのだろうか。

雷、暴風、害獣、害虫、有害雑草、病原菌などは一切存在せず、生物は例外なく人に対して従順であり、人にとって予想外の出来事は何一つ起こらず、自然災害への備えが全く不要になるぐらい安全な自然の実現が可能であったとしたら、私はそれを願うだろうか。
(もし宇宙コロニーが実現するとしたら、そのような自然が組み込まれるのかもしれない)

あるいは宇宙の法則を捻じ曲げて、すべての生物を不老不死に変え、動物の殺処分や出産を不要なものにできるとしたら、私はそれを願うだろうか。

いずれにしろ「願い」は自然だけでなく、さまざまな存在の根幹を揺さぶり続ける。

『魔法少女まどか☆マギカ』のエンディング曲「Magia」は、その「願い」が凝縮されている。この曲は深い精神性と芸術性を兼ね備えた傑作だ。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
公式サイト
http://www.madoka-magica.com/tv/

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(イラスト中央は主人公のまどか。人物イラストだけは他の魔法少女作品に似る)


エンディング曲「magia」


posted by 道下雄大 at 16:44| Comment(1) | アニメーション(アニメ)

2014年01月16日

フランドン農学校の豚

『フランドン農学校の豚』は宮沢賢治の短編小説。宮沢賢治の死の1年後である1934年に発表された。豚の視点から畜産を描いた異色の作品であり、農林学校を卒業し、農学校の教師を務めた宮沢賢治の経験が生かされている。

この物語の舞台では、家畜自身から死亡承諾書をとらなければ家畜を殺してはならないという法律が施行されており、環境倫理学的にみれば驚異的な先進社会だ。といっても未来世界を描いたわけではなく、宮沢賢治の時代とほぼ同じ文化レベルにある王国が舞台である。

このように動物の権利を認める法律が施行されたとしても、家畜に対する差別がなくなるわけではない。家畜生産者は、家畜に対して育ててやったことを恩にきせ、死亡承諾書を認めざるをえないような環境を作り出していく。

このような人と家畜との関係は、性別や人種などの差別を後押しする論理構造とほぼ同じであり、ドキッとさせられる。

人以外の生物の視点から世界を見つめ直して、視野を広げたいという方は、ぜひご一読を。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
青空文庫・フランドン農学校の豚
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4601_11978.html
タグ:宮沢賢治
posted by 道下雄大 at 14:03| Comment(0) | 文学

2014年01月15日

ビジテリアン大祭

『ビジテリアン大祭』は宮沢賢治の短編小説。宮沢賢治の死の1年後である1934年に発表された。

ビジテリアンとはベジタリアン(菜食主義者)のこと。ニュウファウンドランド島の山村に世界各地のベジタリアンたちが集まりビジテリアン大祭が開催される。そこにベジタリアン反対論者たちが登場してスリリングかつユーモラスな論戦を繰り広げる。

植物も動物と同じ生物なのになぜ植物を食べて良いといえるのか?

ベジタリアンでない人なら一度は疑問に思うであろう問いかけが次々と登場し、それらの問いかけに対して理路整然とした答えが返されていく。

世界の食糧問題と菜食との関連に関する議論では、単位面積あたりでどれだけの人の食料が生産できるかを計算した話があり、現代の生態学におけるエコロジカルフットプリントの萌芽といえる考え方が示されている。80年前に発表された物語なのに、現代社会でも十分に通用する議論が描かれているのには本当に驚かされる。さすがは宮沢賢治だ。

宮沢賢治がベジタリアンだったことを知っている者にとっては、この論争の結末は予想通りのようでいて、ちょっとした意外性もある。

ベジタリアンの人たちの考えを知ることができる楽しい物語の一つである。

ただし、環境倫理の視点からみると、宮沢賢治がベジタリアンを「菜食信者」とみなしている点は偏見であろう。

世界には菜食を推奨する宗教が多数あり、それら宗教の熱心な信者であればたしかに「菜食信者」だ。しかしそれら宗教の信者でなくても、無神論者であっても、ベジタリアンであることは大変多い。

例えば、明治維新以前の日本人たちはほぼベジタリアンで、肉は特別なお祝いや病気の時以外はほとんど口にしなかった。現在でも伝統的農業が営まれている村では、菜食と魚中心で生活する老人たちが多い。それはなぜなのか?

これは『ビジテリアン大祭』では答えることができない。
宮沢賢治は晩年にベジタリアンであることを止めたが、私が思うに、おそらく菜食を論理的に信仰していたせいでそうなったのだろう。論理的な信仰は、異なる論理の登場によって崩れ去る危険性がある。

『ビジテリアン大祭』の論理は、自然保護分野における生態系サービスの考えに似ている。それは論理的で説得力があるが、人と自然との関わりの中で育まれてきた人々の想いや喜びはそぎ落とされている。

ともあれ、現在の地球環境問題を理解するために、こうした考え方は役に立つものであり、『ビジテリアン大祭』は地球環境問題の大人向け入門書として価値があるのかもしれない。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
青空文庫・ビジテリアン大祭
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2589_25727.html

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タグ:宮沢賢治
posted by 道下雄大 at 17:48| Comment(0) | 文学

2014年01月13日

Abita

『Abita』は福島の原発問題を扱った短編アニメ。ドイツのDHBW Ravensburg大学におけるShoko Hara氏とPaul Brenner氏の卒業制作品。音楽はLorenz Schimpf氏による。2013年ブラジルとドイツで受賞し注目を集めたが、日本ではほとんど報道されていないらしい。Shoko Haraさんは岡山県出身。

この作品のテーマは「福島の子供たちが、放射能のため外で遊ぶことができない。彼らの夢と現実について。」とされる。台詞は一切なく、落ち着いたBGMのもと、シンプルかつ幻想的な映像がつづられていく。人と他の生物が連続するさまは、神話的、アニミズム的なイメージを生み出しており、3分49秒と短い作品だが、印象的で美しい。

現在下記Youtubeなどで視聴できるが、このYoutubeページには複数の視点からの書き込みが多数あり、環境倫理的に興味深い議論が展開されている。

2011年9月に鉢呂経産相が福島原発周辺を「死の街」と述べたことに対して、賛否両論が巻き起こった事があるが、『Abita』をめぐる議論はこれと同じ論理構造のようだ。

原発に対する想いや価値観は人それぞれ違っている。
だからこそ『Abita』を通して、互いに敬意を払いながらも建設的な議論が続けられることを心から願う。

(文責:道下雄大)

posted by 道下雄大 at 13:20| Comment(0) | アニメーション(アニメ)