2013年12月24日

PLUTO(プルートウ)

『PLUTO』(プルートウ)は、人気漫画家浦沢直樹の代表作の一つ。
手塚治虫の『鉄腕アトム』中の「地上最大のロボット」部分をリメイクした作品だが、オリジナルの物語、世界観、画風が多数盛り込まれており原作とはまったく異なる雰囲気で楽しめる。『ビッグコミックオリジナル』にて2003年から2009年まで連載。単行本全8巻。

この作品はロボットの権利が認められた先進社会を舞台にしており、世界ロボット人権法の廃止を求める過激団体やロボットを心から愛する人たちが登場する。

登場するロボットたちの感情は基本的に人とは異なったものとして描かれているが、やがて身近なロボットたちが殺害されていくにつれて、ロボットたちは人の悲しみを知り、ロボットと人とが同化していく。
手塚治虫の鉄腕アトムでもそうだが、ロボットは人以上に人らしい心を身につけ、男らしく筋の通った生き様、そして死に様を示す。

それにしても、ロボットの心とはいったい何なのか。心が存在するとはいったいどういうことなのか、考えさせられる。

現在の環境倫理学ではヒト以外の動物に権利を認めるかどうかは大きな問題だ。ヒトと似た生体構造を持ち、ヒトと似た神経系を持つ動物に、ヒトと似た心や感情があるという発想を多くの人は否定できないだろう。だから動物の権利という概念は社会で影響力を持つ。

ロボットの体や神経は人と全く異なる仕組みで作られているが、知能の高さという点で見れば動物よりもヒトに近い。

では、そこにヒトと似た心や感情が生まれえるだろうか?

もし生まれるのであれば、『PLUTO』の世界はやがて現実のものとなり、将来における環境倫理の重要な課題となる。

我々は常にヒトとは異なる多種多様な存在に囲まれている。
大自然の中で生活しようと、大都会の中で生活しようと、この事実は変わらない。

動物、植物、山、川、海、歴史的建造物、ロボットなどヒトと異なる存在をどう認識し、そこにどのような価値を認めていくべきなのか。

たとえロボットに人と似た心や感情が無かったとしても、『PLUTO』の問いかけはやがて別の形で我々に迫ってくるだろう。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
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(1巻表紙はゲジヒト、2巻表紙はアトム、3巻表紙はウランであり、すべてロボットである)

    
posted by 道下雄大 at 22:34| Comment(1) | 漫画

2013年12月22日

狼王ロボ

『狼王ロボ』(Lobo, the King of Currumpaw)はシートン動物記の最初の作品であり、日本では子供向け文学として有名。原作は1896年にアメリカ合衆国で発表された。
子供向けの作品に、大人を感動させるような深い精神性が込められていることはしばしばあるが、この作品の精神性は開拓時代が終了して間もないアメリカ人の心に響き、アメリカにおける人と自然との関り方に影響を与えた。

この作品は創作という説もあるが、主人公である狼王ロボの毛皮やシートンが狼王ロボを捕らえたときの写真が残されているので、ほぼ実話とみなすべきだろう。

ロボは高い知能と運動能力を兼ね備えたオオカミで、アメリカ・ニューメキシコで多大な畜産被害をもたらしていたために、現地の人たちから悪魔のように恐れられていた。そこにオオカミ退治に熟練したシートンが招かれ、智恵の限りを尽くした戦いが繰り広げられる。

シートンの罠はことごとく見破られ、屈強な猟犬たちもことごとく撃退される。ロボを捕らえるのは不可能なのだろうか? 考えあぐねたシートンはロボの愛する雌オオカミのブランカを捕獲するという作戦に出る。
この作戦は成功し、ロボはブランカを心配して一日中悲しみの声をあげ続ける。ブランカが死ぬとロボは動揺し、いままでであれば絶対引っかからないような罠に引っかかり、捕らえられてしまう。

ここにおいてシートンはオオカミに人と同じ感情があることに気づき、ロボに同情し、ロボを英雄と称える。

このような物語を日本人的な視点で見ればシートンが悪人に見えてしまうかもしれないが、当時のアメリカ人にとってオオカミは人の生活をおびやかす悪魔のような存在であった。シートンは当時としてごく当たり前の行為をしたにすぎない。

物語終盤において、ロボは悪魔のような敵ではなく、尊敬すべき敵へと変貌する。
そうした価値観の転換は、結果としてアメリカ全体へ広がっていく。

人と動物はどう付き合っていくべきなのか。
これはそのヒントを与えてくれる貴重な作品の一つ。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
Ernest Thompson Seton's Lobo the King of Currumpaw
(狼王ロボについて詳しく解説した英語サイト。狼王ロボの実写写真あり)

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タグ:シートン
posted by 道下雄大 at 16:11| Comment(0) | 文学

2013年12月20日

進撃の巨人

2013年に最もヒットしたアニメといえば『進撃の巨人』。
強大な敵に勇敢な主人公が立ち向かう物語といえば、よくあるバトルアニメ(戦いが物語の中心となるアニメ)の一つともいえるが、個々の人物の精神的内面がこれほどまでリアルに描かれるアニメは他に例を見ない。絶望と希望の狭間で人は何を悟り、どう行動するのか、考えさせられる。

他のアニメであれば極悪人が突然善人になったり、戦いには適さない異常な服装や髪型をしていたり、どう見ても高齢なのに10代の学生という設定だったり、視聴者受けを狙った現実味に欠ける設定がありがちだが、この作品にはそのような非現実性はほぼ皆無である。
戦いの衣装、動き、戦術、旗(自由の翼)などの一つ一つに洗練された機能美が備わっており、進化の歴史の中で育まれた生物の美に通じるものが感じられる。そうした機能美の上に登場人物たちの熱い想いが重ねられ、物語のリアリティがが異常なほど高まっていく。この精神性を含めて現実を直視する姿勢は広義の環境倫理としても評価できる。
なお、25話まで連続放映されたアニメなのに絵と音楽はジブリ並みの優秀さだ。

この作品の精神性で注目すべきは「世界の残酷さと美しさ」がテーマになっている点だろう。嗜好品として人を食する巨人の残酷さと弱い他人や動物を殺す人の残酷さが対比的に描かれる。つまり、単純に敵が悪いとみなすのではなく、自分を含めて醜い部分と美しい部分とを共に直視する姿勢を示す。

この姿勢は現代の都市化された人類が失った精神性の一つであり、自然と密接に関わりあいながら生活する人々の間では当たり前のことであった。我々は他の生物の命を奪わなければ生きていけない。そんな当たり前の現実から目をそむけて、自分の心を痛めずに生活することを可能にしたのが現代文明のシステムだ(詳細は森岡正博『無痛文明論』参照)。

オープニング曲「紅蓮の弓矢」では、敵から目をそむけて壁で守られることに満足する人々を家畜の豚に例える歌詞があるが、それは現代文明という壁の中で誰かよく知らない他者が食料やライフラインを維持してくれていることに満足し、それ以上思考しようとしない私の姿そのものでもある。

現代社会で主人公のエレンのように生きることは、社会のシステムを問い直す行為であり、リスクが大きく、場合によっては反社会的行為とみなされるかもしれない。
それでも、エレンの生き方に惹かれるのはなぜなのか、考えてみる価値はあるのではないだろうか。

(文責:道下雄大)


【関連ページ】
TVアニメ「進撃の巨人」公式サイト


タグ:進撃の巨人
posted by 道下雄大 at 14:17| Comment(1) | アニメーション(アニメ)

このブログについて

環境に対する倫理観は多種多様。
それは高尚な哲学だったり、自然を愛する気持ちだったり、畏敬の念だったり、人それぞれ。
特に「環境に対する人間のあり方に対する規範」を環境倫理と呼ぶ。

でも、それら倫理観はどこから来てどこに行くのだろうか。

倫理観は自然を観察する中で生まれることもあれば、芸術作品を見つめる中で生まれることもある。
自然が人と密接関わり合いながら進化してきたのと同様に、芸術作品という文化もまた人と密接に関わりあいながら進化してきた。
いずれにしろ、倫理観は関り合いの中で生まれるのだ。

だからこのブログでは、倫理的気づきを与えてくれる芸術作品たちに敬意を払い、環境倫理的に掘り下げた考察をする。

その倫理観がどこに向かうのかも人それぞれ。
posted by 道下雄大 at 00:04| Comment(0) | このブログについて