2014年10月28日

風の谷のナウシカ(アニメ版)

宮崎駿氏との偶然の出会い、それはとある急峻な谷間の農村で起きた。
出会いといっても民俗学に関する多少の会話を交わしただけなので、彼はもう私のことは忘れているかもしれない。

たまたま民族植物の研究調査で訪れた農村、そこは伝統的な日本の民俗文化が今も息づく場所であり、日本の原風景ともいえる景色が広がっていた。
宮崎氏は定期的にここを訪れていた。
そこは彼にとっても私にとっても、なぜか心地よい場所。

本作品に登場する風の谷とはまるで風景が違っているけれども、私にとってはこれも「風の谷」だ。

「風の丘」ではなく「風の谷」。

民俗学、生物学、民族植物学など学術的な視点で見るなら、この違いはとても大きい。
谷は雨水の集まる場所であり、野性植物たちを育み、丘よりも肥沃な土地となりやすい。
やがて植物たちだけでなく、人を含めて多くの動物たちが寄り集まる。
だから長い歴史を持つ日本の農村は、その多くが谷に位置する。
水が多いので水田耕作にも適する。

日本の古い地名には「谷」を含むものが多いが「丘」を含むものは少ない。
「丘」はたいてい歴史の浅い新興住宅地であろう。

丘は砦や城を築くには適しているかもしれないが、農耕民にとっては好ましい場所ではない。
生物の種類も丘と谷とでは違っており、それぞれに異なった生物種が生息している。
つまり距離は近くても丘と谷は別世界なのだ。

谷は肥沃であり、収穫物などを通して多くの喜びを人々にもたらす。
しかし、その肥沃さゆえに、丘からの侵略を受けやすく、多くの悲しみも生じる。

風の谷のナウシカでは、日本文化の根源ともいえる「谷」の悲しみと喜びが表現されている。
おそらく日本人であれば、無意識のうちに共感を感じてしまうのではないだろうか。
このような物語設定は宮崎作品以外のアニメや漫画ではほとんど例がなく、みごとだと思う。

一方、
谷の悲しみは、侵略を受けやすいことだけではない。
多くの生物たちが集まれば、人にとって有害な生物も集まる。

生きるため、太古の時代から人は有害な生物を殺し排除してきた。
農業のために必要とあれば、森を焼き払い、有害・無害にかかわらず生物たちを殺すことさえある。

本作品で描かれる自然は人に恵みを与える一方で、厳しくたくましい。
腐海の森は毒を吐き、ある種の生き物は戦車よりもはるかに強い力で人を襲う。

まるで原始時代のように、この作品の登場人物たちは自然と戦って生き、自然を征服しようともがいている。

しかし、そこに環境倫理が存在しないかというと、そうではない。
谷の長老は、侵略者たちに対して、自然に対してしてはならないあることを訴える。
その訴えは禁足地など日本でもよくみられるタブー(禁忌)の一種であり、タブーであるがゆえに村の外からやってきた侵略者たちの心に響くことはない。

タブーとはそういうものだ。
非論理的で説得力に欠けるが、ときとして重要な倫理が見え隠れする。

本作品のタブーの中にも何かが見え隠れする。
主人公のナウシカは命がけの活躍によってそれを徐々に明らかにし、やがてタブーとは異なった形で新しい価値観、つまり環境倫理を手に入れる。
環境倫理の視点で見つめるなら、そういう物語だ。

本作品は、WWF世界野生生物保護基金(現世界自然保護基金)推薦作品とされており、自然保護を主張した作品とみなされることがある。
しかし、実際に描かれているのは人と自然との「対立」であり、自然保護ではない。
しかも日本の歴史性を踏まえて描かれた、現実としての「対立」だ。

この「対立」の先に我々は何を求めるのか?

もちろん自然保護も一つの選択肢ではあるが、
より激しい自然との対立を我々は望むのかもしれず、
客観的にはどちらが正しいともいえない。

我々は自然に対して何を望み、将来、どのような行動を起こすべきなのか。
これはそのヒント与えてくれる貴重な作品だと思う。

(文責:道下雄大)

【関連ページ】
amazon(イラストは主人公の少女ナウシカと蟲(オーム)。昆虫類がこんなに巨大化することは生物学的にありえないのだが・・・、この蟲はたぶん昆虫類ではないのだろう。)


タグ:宮崎駿
posted by 道下雄大 at 11:04| Comment(0) | アニメーション(アニメ)

2014年07月16日

伊藤若冲の作品群

生物の好きな人であれば、伊藤若冲(1716〜1800)の作品のすばらしさは説明するまでもないだろう。花鳥画の伝統を受け継ぎながらも、細部の正確さを追求したその筆遣いには、江戸時代に発展した本草学(博物学)の影響がみられる。代表作は『動植綵絵』など。

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(プライス・コレクションの『紫陽花双鶏図』。これ以外にも「伊藤若冲」や「動植綵絵」でネット検索すれば多くの作品群を見ることができる。)

人は日常生活を送る中で、身の回りのさまざまな生物や存在、風景などを見て、それらを心で感じる。
しかし、身の回りに存在するにもかかわらず、あまり意識していない存在や風景も多い。

例えば、身近な植物の花のつき方、おしべの数、枝の分かれ方、葉脈の模様、葉の裏の色、
これらを真摯に見つめるならば、人は今まで気づかなかった非日常の世界が広がっていることに気づく。
そこに広がる世界は、幾何学的なデザインだったり、不思議な一体感を見せる曲線模様だったり、生物が生き残るために獲得した機能美だったり、多種多様な姿で彩られている。
これらはいわば小宇宙(ミクロコスモス)であり、私自身の日常と常につながっているにもかかわらず、隠れていた非日常ともいえる。

小宇宙といえば、ルーペや顕微鏡でのぞいた世界をイメージする人がいるかもしれないが、見つめる心さえあれば、肉眼でも十分に観察可能である。生物学の基礎となった本草学は肉眼を通して世界を見つめたのであり、伊藤若冲も同様であった。

それは見つめなければ、一生気づくこともなかったであろう世界。
画家はそれらの世界を絵で表現し、学者は文字でそれらを表現する。

このように人は、見つめることによって、新たな世界との「つながり」を増やしていく。

この「つながり」が人にとってどのような意味を持つのか、科学的にはまだ明らかにされていない。
けれども、この「つながり」は人にとっての生きる糧の一つであるように私には思える。
ときには「つながり」が環境を愛する心を育み、環境とつながって生きることを可能にする場合もあるだろう。

もし生物学的な視点だけで見るなら、ベルギーの画家ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテ(1759〜1840)やシーボルトの絵師をつとめた川原慶賀(1786〜1860)の方が作品の構図により現実味や客観性があり、よりすぐれた画家だと私は考える。

それでも、生物学的な価値を保持しながらも、同時に生物の躍動感をもみごとに表現した伊藤若冲は、稀有な存在だ。
その作品の躍動感は、日頃生物に興味のない人をも引き寄せる力があり、穏やかながらも現代社会に影響を与え続けているのだろう。

(文責:道下雄大)


【謝辞】
GATAG|フリー絵画・版画素材集(http://free-artworks.gatag.net/
より画像をお借りしました。感謝申し上げます。
タグ:伊藤若冲
posted by 道下雄大 at 12:02| Comment(2) | 絵画

このブログについて(改定)

このブログは、環境倫理の視点からさまざまな芸術作品を見つめると、どのような気づきがあるのかをエッセイ風に記したものです。

環境倫理とは、『環境倫理学』(鬼頭秀一・福永真弓 2009)によれば、「『環境』に対する人間のあり方に対する規範」とされ、ふつうはこの意味で使用されます。

ただし、環境倫理はそれ自体に多様な視点を含んでいるので、結果として著者の個人的な視点が多く反映されていることはご了承ください。私の専門は民族植物学であり、環境倫理学はアマチュア的に研究してきたにすぎませんが、環境倫理シンポジウムを主催するなど市民運動で学んだ経験や民族植物学のフィールドワークの中で得た経験などを反映させて記しています。

芸術作品を異なる視点で見つめれば、異なる気づきがあり、異なる考察が生まれます。
このブログを読まれた方は、自己とは異なる視点に触れ合うことになりますが、
異なる視点と触れ合うことを心地よいと感じるか、不愉快と感じるかは人それぞれです。

異なる視点と触れ合うことを心地よいと感じる人たちのために、このブログを捧げます。

ブログ管理者
道下雄大

posted by 道下雄大 at 11:50| Comment(0) | このブログについて

2014年07月11日

種まく人(種をまく人)

1850年、フランスのサロンに出品されたミレーの作品は、『種まく人』という異色の内容であった。

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種まきは、すぐに利益の得られる生業ではない。
一年生作物であれば数ヶ月先に利益が得られるが、果樹や建築材であれば10年以上後になってようやく利益が得られる場合もある。
したがって、それは「未来を肯定する」という精神的行為をともなってはじめて成立することになる。

未来とは、収穫物の未来であり、また自分や家族たちの未来であり、村の仲間たちの未来であり、環境の未来でもある。
もしこれらの未来を否定するならば、種まきは生業としての価値を持たない。
だが、希望が込められた種がそれらの未来を肯定してくれる。

そうした生業の中で倫理的な気づきが生まれる場合もあるのだろう。
農業を営む人の中には独自の倫理観を持つ人が多いように私は感じる。

種まきとは、そうした精神性を内包する行為なのだ。
だからミレーの絵には魅力があるのだと思う。
その精神性は、言葉ではなく行為によって論理的な筋が通されていく。

アメリカ由来の環境倫理学では世代間倫理、地球全体主義、自然の生存権などが主張されるが、世代間倫理の考え方は未来を肯定するという点で種まきの精神性に似ている。
ただ違っているのは、世代間倫理が社会契約や平等を根本的理由として掲げながら、間接的に未来を肯定する方向性を示すのに対し、種まきの精神性は経験がそのままダイレクトに未来を肯定する方向性を示す点だろう。

世代間倫理は資源の枯渇や環境破壊の深刻さを直視する中で生み出された考えであり、論理的で現代的だ。一方、種まきの精神性は論理的ではないが、無意識に強く訴えかけるものがある。

日本にはまだ多くの人が納得できる環境倫理は存在しない。
アメリカ由来の環境倫理は、自然環境の大きく異なる日本ではそのままでは通用しない。
だとしたら、農業を営む人たちの精神性の中にあたらな環境倫理のヒントが隠されているのかもしれない。

農業を営む人たちは、身の回りの自然と深くかかわりあいながら生活し、多くの経験と知識、知恵を蓄えている。
今でも日本の伝統的な農村を訪ねれば、都会に住む大卒の「知識人」たちよりも、自然に関する多くの経験的知識を持つ人たちに出会う。彼らの身の回りの環境をつぶさに観察すれば、道路わきの空き地や畑の畔道などを含めてあらゆる場所が無駄なく管理されていることに気づく。彼らは環境を直視し、環境を持続的に維持することによって生き残ってきたのだ。

だから、私を含め民族学や民族植物学を研究する者たちは、農業を営む人たちに多大な敬意を払う。
とはいえ、彼らの倫理観は現代的ではなく、時代遅れの可能性もあるだろう。
それでも、「種まく人」との対話の中で新たな環境倫理のヒントが生まれる可能性もある。
その可能性を大切にしたい。


【追記】 2014年7月15日
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このマークは岩波書店の登録商標であり、創業者の岩波茂雄氏が『種まく人』から影響を受けたことに由来する。岩波書店は、古今東西の古典的名著を文庫という形式で安価で供給し続け、知識という種を社会に広くまいた。
種まきの精神性は、農業以外の場面へも波及していく。


【謝辞】
GATAG|フリー絵画・版画素材集(http://free-artworks.gatag.net/
岩波書店 岩波の志(http://www.iwanami.co.jp/company/
以上のページより画像をお借りしました。感謝申し上げます。
タグ:ミレー
posted by 道下雄大 at 23:43| Comment(0) | 絵画

2014年07月08日

落穂拾い

ジャン・フランソワ・ミレーの絵画は、土地と人とのつながりを感じさせる。
『落穂拾い』は1857年に発表され、フランスの農村を描いたものだが、そこには土地から落穂を集める人たちが描かれている。

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落穂拾いとは、麦畑での収穫後に、収穫されずに地に落ちた穂を集める行為を指す。ただし落穂を集めるのは畑の所有者ではなく、外からやってきた貧民たちである。
これはいわば貧民救済策なので、心ある畑の所有者たちは収穫時に多くの穂を地に落とし、そのまま放置する。『旧約聖書』の「レビ記」や「申命記」でその風習が推奨されており、キリスト教圏の農村ではかつて広くみられた。韓国の農村では今でもその風習が残っているときく。

「申命記」第24章にはこう記述されている。
「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。 (中略) あなたがオリーブの実をうち落とすときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび探してはならない。 (中略) あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。」

モッタイナイの心を大切にする日本では、ふつう農作物は無駄なく収穫され、余った農作物は親族や村の仲間たちに分け与えられる。赤の他人や動物が勝手に農作物を持ち出すことはふつう許されない。
これを当たり前と考えていた私にとって、落穂拾いという風習はきわめて衝撃的だった。

彼らにとって土地とはいったい何なのだろう。

もし動物行動学的な「なわばり」として土地を意識するならば、「なわばり」に侵入する赤の他人たちは排除される。それをあえてしないのなら、その土地は「なわばり」ではない。かといって共有地や公有地でもない。落穂拾いがなされる土地は、私有地と共有地の中間的な意味を持っているのだ。

そこで人々は、土地から得られる収穫物を見知らぬ他者と共有し、時には動物たちと共有することになるだろう。
やがて、人は「なわばり」の呪縛から部分的に解き放たれ、人としての新たな倫理を手に入れる。

落穂拾いは、寄付行為の一種とみなせるが、キリスト教圏の人たちは二千年以上もの間、生活と密接に結びつく形でこうした寄付行為を行ってきたのだ。慈善団体や自然保護団体への寄付額が日本とキリスト教圏では比べ物にならないほど違っているが、この文化的な歴史性を考えれば当然ともいえる。

今回取り上げたのは、キリスト教圏の風習だが、周知のように日本にもすばらしい風習があり、その他の国々にももちろんすばらしい風習がある。
一方で良くない風習も世界各国にある。
各国がお互いのすばらしさを理解しあうため、私たちは文化や風習に関する理解をさらに深める必要があるのだろう(そのためには私の専門である民族植物学をもっと発展させねばならないが・・・)。

なお、ミレー(Millet)という人物名は雑穀(millet:ヒエ、アワ、キビなど)に由来しており、日本語的には稗田さんという感じだと思う。名に恥じぬ活躍をされたミレーさんに敬意を表したい。


【謝辞】 韓国の落穂拾いに関する情報は現地を知るK氏から教えていただいた。『落穂拾い』の画像は「GATAG|フリー絵画・版画素材集」(http://free-artworks.gatag.net/)のものを使用させていただいた。感謝申し上げます。
タグ:ミレー
posted by 道下雄大 at 09:39| Comment(0) | 絵画